第三章 海に潜る至福の感覚を知る
水に潜る快感に出会う息をこらえて水に潜るというフリーダイビングは、傍目には、苦しくはあっても、決して楽しいものとは思えない。それなのに、なぜか、一度その魅力にとりつかれるとやめられなくなります。私は、それを「潜りたいという純粋な欲求」だと考えます。私はその純粋な欲求がもたらす快感を、ジャックとともに海に潜ることを通して経験した。
中野の《TAC》のプールでジャックに怒られた後に、もっと印象深い出来事がありました。今度は、きちんとウォーミングアップをしてから、水深15mのプールの底まで潜ることになったのです。潜り方としては、ジャックが先に15mの底にいて、しばらくしてから私が潜っていって、それから一緒に上がってくるという形でした。その、浮上のとき、私は、なんともいえない幸福感に満ちていました。不思議な感覚。これまで感じたことのない幸福感、満たされた気持ち......。この気持ちは、ゆっくりと水面を目指して浮上している間じゅう続きました。
そして、前述の座間味の海で、さらに強烈な幸福感を感じたのです。あるとき、ジャックが「本格的なフリーダイビングのトレーニングをやるから来ないか」と私を誘い、30mのトレーニングをすることになりました。まずは、30mの水深の地点を船頭さんに探してもらい、アンカーリングして、ロープをまっすぐ海底に向かって垂らします。潜る前にはもちろん準備体操。船の上で本格的なヨガのストレッチをやって、呼吸法をやって......。それから初めてこの目で見たのですが、ジャックは映画「グランブルー」で使われていたようなコンタクトをつけて、鼻栓をし、水着一枚にウエイトをつけて......。フィンは、「ロンディンガラ」でした。彼のトレードマークにもなっているあの長いフィンですね。
そして、ジャックは10m、20m、30mと順番に潜りました。最初に10mまで潜って上がる。少し呼吸法で呼吸を整えて、その次は20m。上がって、それから30mと、徐々に到達点を深くしていきました。私は自分でも潜ったり上がったりを繰り返しながら、その一部始終を見ていました。それ以前にも、水深計を持って測ったことのある範囲では、水深27mぐらいまで行けたこともありました。だから、30mと聞いたときから「トライしてみたい!」と思っていたのです。
そして、彼が潜り終わったあと、「私も同じように、ロープのラインに沿って30mまで潜っていい?」って聞いたら、「いいよ」とのこと。事前にウォーミングアップはできていたので、呼吸をととのえて、私は生まれて初めてラインに沿って、まっすぐ海底に下りていって水面に帰ってくるという行為を経験しました。今でいう、競技と同じ形でのフリーダイビング、コンスタントウエイトです。
で、潜って、上がって......。そのときに、あの強烈な、プールで感じたよりももっとすごい、強烈な幸福感というものを体験しました。自分が完全に満たされたという感覚です。
Feel so good?水から上がったあと、ジャックと仲間たちや他のお客さんが、船の前の方で集まっていろいろ話していました。私も最初は混じっていましたが、あまりにも素晴らしい幸福感に満たされていたので、ひとりでこの気持ちを抱きしめたくなり、皆から離れて船尾の方でしばらくポケーとしていたんです。するとトコトコとジャックが来て、いたずらっ子みたいに私の顔を覗き込んで、ひとことだけ言いました。"Feel so good?"
私は真っ赤になって、なんだか、すごく照れちゃった。ジャックはすぐに去っていったのですが、「ジャックは、私が今どんな気持ちでいるか知っているんだ」と思ったのです。言葉では言い表せない最大限まで満たされたこの感じを、当然だけどジャックはもう経験していて、それがどんなふうなのか知ってるんだなって改めて感じました。もしかしてこれが、フリーダイビングの魅力というか、謎のひとつなのかもしれないと、初めて、おぼろげながら感じたのでした。
この不思議な気持ちの余韻は、その後しばらく止まりませんでした。宿に戻って器材の片づけていても途中でボーっとなり、食事していても、知らぬ間に箸が止まってあらぬ方向を見つめて、周囲の人に心配されたりして......。これが、私自身がフリーダイビングに魅せられたと確信した日の出来事です。そして、このときから、心の中に「もっと潜りたい」という純粋な欲求が生まれ、それは今も枯れることはありません。